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「10年間、流行から遅れた男のその後」

約10年間忙しく仕事をしていた私は、会社を辞めて蓄えもあり約2年間遊んでいた。
忙しくて趣味の時間があまり取れなかったのでまずレンタルでアニメ、海外ドラマ、お笑いなどを借りて見た。
レンタル店は、インターネットの普及で店舗によってはレンタル価格が下がり安い所で1枚100円で借りられた。
24のブームから何年後だったろうか?
デスノートブームから何年後だったろうか?
そういう遅ればせながらに話題の作品を見ていた。
ゲームの方は、Wiiとかプレイステーション3が全盛期の頃だろうか、私はその頃にPS2をやっていた。
中古販売で安くなったゲームソフトを買いプレイしていた。
約10年間出来なかった事でメリットがあると言えばこういう遊びが安く出来たという事だろうか?
夜に面白いテレビがあるのでそれを見ている為、生活リズムは段々と夜に移ってくる。
昼12:00頃起きてラーメンを食べ、夜19:00頃自炊をし晩御飯を食べ、夜3:00頃に寝るのだ。
そういえば昔から夜になると元気が出てくるタイプだった。
基本1日2食だが夜腹が減るとラーメンを食べたり、スナック菓子を食べたりしていた。
言い換えると朝ご飯にラーメンを食べて昼に自分でご飯を作って夜にラーメンを食べるという生活をしていた。
今の生活リズムも大体こんな感じで変わっておらず、こんな生活でも身長170cm以上、体重49kgの記録を叩き出した私は、体質なのか今も痩せている部類だ。(15年ぐらい体重計に乗っていないので現在何キロあるかわからない。予想では、56kg)
よく考えるとほぼ毎日ラーメンを食べているので1年で昼300食として夜のラーメンが2日に1回ぐらいだとすると年間450食は食べている事になる。
私は、しょうがなくカップラーメンを食べている訳ではなく好きだから食べている。(もちろんお金持ちだったらラーメンの食べ歩きをしてそれをブログに紹介しているかもしれないが)
それだけ食べているのならHTMLの勉強もかね(元々はIT技術者志望)自分で食べた種類をブログで紹介しようと思いたちブログを作る事にしたが勉強不足の為、フレームで作ってしまいコンピュータ環境によってはタイトルしか見れないはずだ。
いつか作り直そうと思っている。
興味がある人は、覘いてみてくださいね。
こういう生活を約2年間している間に貯金もなくなり例の飲食店でブラックバイト生活に突入するのだった。
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「3年遊んで暮らす!」

私は辞表を出した後、同期入社の同僚達に報告し「3年遊んで暮らせる貯金があるから、3年遊んで暮らす」と嘯いて会社を辞めた。
遊ぶというのはキャバクラに行ったり毎晩飲み歩くという事ではない。
先にも書いたと思うが映画鑑賞、読書、ゲームなどが好きなのでそういう事をしたかった。
これまでの10年は、コンビニでお弁当を買い、急いで家に帰って急いでご飯を食べ、急いでシャワーに入ってどれだけ睡眠時間を取れるか、私のプライベートはその事だけに力を入れていた。
話題の映画、最新のゲームそういう物をやっている暇はなかった。
急いで帰って、買った弁当を温めると急いで口に運ぶ。
すると温め過ぎていて口に入れても熱くて食べられない。
私は、弁当に「熱いは、クソ!!」と弁当を持ち上げ軽くテーブルに叩きつける。
少しこぼれた弁当を結局、掃除する事になる。
余計な手間が増えただけだった。
この事からも私が“3年遊んで暮らす”と言いたくなるのもわかってもらえるだろう。
私は、本当にゆっくりと趣味に時間を使い、たまにハローワークで会社を探す。
決して病んで(引きこもりで)一歩も家を出なかったという事ではない。
そんな楽しい時間を過ごしていたら本当に貯金の限り遊んでしまった。
3年と言っていたが2年でお金は、苦しくなった。
そして本気で仕事を探す事になる。
しかし、基本これがやりたいと思う夢(職業)がないという私は、この会社に行きたいと思う所を見つけられず、その間貯金はどんどん減っていき飲食店店員というアルバイトをする事になった。
この時もっと真剣に就職活動をして入れば年齢も約30歳とやり直しも出来ただろうが前のブラック会社の影響で仕事に楽しさを見出せず、時間を自由に使える楽しさを覚え、元々の怠惰な性格も絡まって約2年も使って最終的にはアルバイト店員という者に落ち着いてしまった。
決まったアルバイトもブラックバイトでまた酷い目にあうのだがそれは、一旦置いといて次回は、約2年間遊んでいた生活を書いていこうと思います。

「よっ!!社長」

こんな暗い感じの私のブログが大人気になる事など思ってもいない。
しかし、ここまで人気がないと私が嫌いな、街で大きな声でブツブツ言っているおじさんの独り言のような気がして虚しさを感じていた。
拍手してくださった皆様ありがとうございました!!
操作方法をまだ勉強中ですがリンクなる物を自由に貼ってみてくださいね。



新入社員は環境に慣れるまでは、非常にしんどい。
それなのに以前の会社では、強制的に新入りの私に仕事もないのにサービス残業を強制した。
周りのおじさんの名前もわからない、就業中にトイレに行く時も先輩に「トイレ行ってきていいですか?」と声を掛けるぐらい会社という所がどういう所かわからなかった時である。
トイレは、「別に行きたい時に行けばいい」と教えてもらったが緊張しながら仕事の勉強をしていた時に就業時間を過ぎても帰らせず無理やり勉強をさせられ倍疲れた。
大手広告会社が新入社員を過剰残業で自殺に追いこんだが中には、“自分はそれ以上働いている”と言う人もいるだろう。
しかし彼女は新入社員で悩みを話す同僚や先輩を作るまもなく上司に責められたのだろう。
悲しい事だ。
私は、新入社員と言われる時期を過ぎても毎日残業し、定時に帰る事はなかった。
毎日平均21:00頃まで残業し、休日出勤、徹夜、1ヶ月連続休みなし、1ヶ月間連続0:00越えなど輝かしい記録を打ちたてた。
全部残業代を付ければ法令を超える残業になるし利益もマイナスになるのでほとんどがサービス残業になった。
私は、お客さんからは好かれたが上司達には嫌われていた。
嫌いな人間にゴマをするという事が嫌いで自分はしなかった。
周りの仕事を適当にやる感じの同僚が、上司がカラオケで歌う時に「よっ!!社長」と声を掛けていたがそういう事が自分は人見知りも関係しているのだろうが大嫌いだった。
別にそういう人を軽蔑していない。
嫁や子供の為にそこまで出来るという事はある意味すごいと思うし尊敬している。
しかし、私は子供も結婚もしていないので自分の給料の為にそういう事が出来なかったのだ。
嫌われた私に会社は厳しく、経営不振の影響もあり何の落ち度もない私の基本給を減らした。
ボーナスを減らすというのはまだわかるが、明確な説明もなしにこっそりと減らしていた。
私は、キリの良い3月末に辞める事にした。
会社は、”私が辞めても良いと思ってやっている事かも”と思ったが私が辞表を出すと上司や先輩達が“辞めるなよ”と言い出した。
私は、普段優柔不断な人間だが大事な判断を自分で決めたらもう人の意見で変えるのは難しい。
自業自得だと思いながら辞めてやった。
その土木設計会社に入社して約10年後の事だった。

「新入社員の残業」

専門学校卒業まじかで土木設計会社に就職が決まり就職浪人にはならなくてすんだが、今で言う就職した会社はブラック会社だった。
会社に行き始めて即戦力には、ならないので1日中図面を書く練習(当時はまだ一部手書きの図面があったのでドラフターを使った手書き)CADの操作練習、土木関連の本を読んだりして勉強をするように言われ始めた。
2日目からだっただろうか?終業のチャイムがなってもいつまで経っても帰してもらえず、実質の仕事をしていないにも関わらず帰してもらえなかったのだ。
毎日のように残業をさせるので日報に残業時間を書くと上司に呼び出され「君は、まだ仕事をしていないんだよ。勉強中だよね?」と言うのだった。
自分でも会社に貢献していないのは、わかっているがそれなら定時で帰らせればいいと思う。
私は、責任感は仕事をやっていく過程で身に付くと思っている。
それを会社が強制して残業させるのは、間違っている。
自分が人より能力が劣っているならサービス残業してでも勉強や人に劣る遅い部分を補うようになると思う。
最初から残業をさせるとどうなるかというと私は、“8時間一生懸命がんばっても帰れないなら力を抜いて仕事をしよう”と思うようになった。
これは、仕事をサボって過ごそうという意味ではなく、例えば100m走のつもりで全力で走ってゴールをしてから審判が「これ800m走だよ。ゴールは向こうだよ」と言われた様なもので自分は、体力の全部を出し切ってハァハァと言っているのに、また“走れ!”と言われるという事でゴールがわからないのなら“様子をみながら走りますよ”という意味だ。
ゴールは、100m走なのか200m走なのか800m走なのか上司しか知らないのだから私は、体力を残すように流して仕事をするようになった。
徐々に実際の仕事を任される事が増えてきてもその考え方のまま仕事を進めていくようになった。
先輩達は毎日のように残業をしているので新入りが先に帰る訳にはいかない。
急いで仕事をするより先輩が帰る時間まで仕事を普通にする方が良いと言う考え方だ。
今では、おかしい考え方だと思うがそういう癖を付けたのは会社の責任であり上司である。
私がこの会社がブラック会社だと広言するのは、サービス残業を強要する所にあるのだ。

「就職難と人事担当の無礼」

私は、夢のような職業を選ばずプログラマーになろうと情報処理系の専門学校に入った。
しかし、就活前に3回行われる国家試験に合格できなかった。
これは、非常に痛かった。
その頃バブルが弾け、不景気に突入していた。
そして順調だったIT関連は、特に不景気の影響を受けほんのちょっとの新卒採用枠を取り合う状況になっていた。
それも私達は、第二次ベビーブームと言われる世代で唯でさえ少ない採用枠を取り合う事になったのだ。
あと、国家試験に落ちたのが問題だった。
基本、会社の応募条件に国家試験合格者のみという厳しい公募しかなかった。
自分が悪いのは、わかっているがトリプルパンチで溜息が出る状況だった。
私は、コンピュータの道を諦め地方CMで流れるある会社を受ける事にした。
たしかそれは販売員の募集だったと思うがそこを面接に行く事にした。
そこでイラッとする事があった。
面接で人事部の人間が私の駄目出しをし始めたのだ。
「なんかこの会社に入りたいと言う情熱が感じられない」と言い始めたのだ。
わざと学生を試した可能性もあるが、希望する職種を諦めて面接に来ているのだから情熱などあるはずもない。
「はぁ」と気のない返事をして説教だか講釈だかわからない事を聞いていた。
私は、性格的に情熱はないが真面目で責任感が強くどこに行くかよりそこで何が自分が出来るかを考えている。
その人事部の人間の話を聞きながら私が思ったのは“おまえの会社では一生物を買わない”という事だった。
人事部が人の評価をその人の前でする必要はなく帰ってから会議かなにかで評価して不採用通知を送るだけでよいのだ。
これを読んでいる人に人事部の人間がいるのならこの事を頭に入れておいてもらいたい。
“学生もその会社のお客さんである”という事を。
就活でダメージを受けつつも印刷会社や金物販売店などの面接を受け、その内金物屋は受かったがコンピュータを弄れる環境ではなく辞退した。
なんだかんだで1月になっても就職先が決まっていなかった。
そしてCADを弄れる土木設計会社の募集を発見し受けてみる事にした。
思えば1月、2月に5人の新卒募集をする会社などろくでもない会社(計画性がない会社)だという事がわかるが自分は興味が沸いたので試験を受けた。
そして2月にやっと就職が決まったのだった。
それが今後の人生を大きく狂わせていくのだった。

「生まれ変わった私」

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悪ふざけか?本物か?確認してやる。





情報処理の専門学校に願書と成績表を送ると、私の願い通り試験を受ける事なく合格した。
そして我が県の県庁所在地に田舎から引っ越す事になった。
私がどれだけ怠惰で駄目な人間かという事は、ここまで読んでくださった方はよく分かって頂けたと思う。
さぞ自由に遊び回ったと予想されるだろう。
しかし私の中で高校までは、親も行って欲しい=高校も義務教育の一部という考え方をしていた。
もちろん高校に親が大金を払ってくれて通っていた事はわかっていたが専門学校は、行かせてもらっているという考え方を持っていた。
だから専門学校から帰ると毎日復習をして勉強していた。
その専門学校に通う最終目標は情報処理技術者試験に合格する事でそれを目指し、毎日努力していた。
そこで自分がやれば出来る子だという事がわかった。
クラス50人で5本の指に入る成績を出すようになった。
上記の様に勉強をがんばろうという意識から人見知りの私は、専門学校では“友達も一人も出来ないのだろうな”と思っていたが「昼ごはん食べに行こうや」と誘われて専門学校で寂しく勉強するだけの人間にはならなかった。
嫌いな勉強をしなければならないのは、辛かったが専門学校はそれなりに楽しかった。
技術者試験は年に二回あり2年間の内に3回試験を受ける事が出来る。入学後すぐに試験がある為一回目の試験は個人が希望しない限り受けなくていい。
その3回で試験に合格しないといけない。
初めての試験は受ける前から自分の実力不足は分かっていた。
落ちるだろうと思っていた。もちろん落ちた。
後の2回の試験は、実力十分で高い確率で受かると思っていた。
しかし、落ちた。
言い訳を言わせてもらえれば自分の得意な問題ではなかったという事が敗因だった。
もちろん自分が広範囲に勉強出来ていなかった事が問題だった。
その2回の試験を合格出来なかった事は、後の就職活動に多大な影響を与える事になるのだった。

「夢を追う=博打か?」

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チキンラーメンは普通に食べるよりそのまま食べる方が多いかな




自分は、色々な事を諦めてきた。
自分の能力の頂点は理解している。
子供の頃に怠惰な心を入れ替えて運動をしていたとしてもプロ野球選手やサッカー選手にはなれなかっただろう。
プロ野球選手が戦力外通告を受けてその後の生き方に選択を迫られる番組がたまにある。
その番組では、突然戦力外となって家族の為に野球を辞めて別の職業に進むか社会人野球でもいいから続けるかなどの人生の分岐点にどうするのか密着して撮影している。
それを番組では、突然解雇されて大変だというような方向で描いているが私に言わせればプロ野球選手になれた事自体すごい事でプロを目指して断念した人がたくさんいるのだと言いたい。
プロ野球選手を目指す事自体が賭けみたいな物で学生時代の全てを賭けてクラブに打ち込んでいると勉強をほとんど出来ない。
もしプロになれても怪我で一発で駄目になる可能性もあるし、狭き門を通れなければいい年になって新たな勉強を始めなければならない。
夢を追いかけるというのは、そういう物でそれを契約金何千万の年棒ウン百万で途中でクビになった、厳しい世界だという様な感じで番組が進む。
私には、理解しがたい。
元々自己責任だし、初任給では貰えないお金を数年だけでも貰っているし、その野球選手の奥さんが美人な人が多いなど“あなたは幸せでしょ?”と突っ込みどころ満載なのだ。
きっと野球選手自体それを覚悟しているのだろうがそれを製作者側の演出が私の感覚とは違っているのだろう。
さて話を本筋に戻すと私は、自分の能力を客観的に見てプログラマーを目指す事にした。
高校の選択科目でゲームなどコンピュータが好きだった事もあり情報処理を選択した。
私は野球選手や歌手などの変な夢など見ず現実的な職業を目指した。
それが高校3年の時なので怠惰で勉強嫌いな私は大学に進む気も受かる訳もなく、また、4年も勉強する事も怠惰な人間なので早く社会に出ようと専門学校に進む事に進路を決めた。
進む専門学校は情報処理系の学校はたくさんあり、その中でも願書を出せば受かると言われる学校を選び願書を送るのだった。
しかし、成績が悪すぎれば試験を受ける事になるとの事で高三の二学期当たりから普通に勉強するようになったのだった。
夢を追う人は世間ではどのようなに思われているのだろうか?
“夢を追ってる人って素敵!”なのか“絶対なれないのに愚かな!”なのか。
しかし、私ほど夢を見ない人も珍しいのだろう。

「ホワイトーデーに”お返し”しない高校生」

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餃子は揚げた方が美味しいと思う。





中学時代に好きな子がいつの間にか転校していた事は書いたが、その後の中学で好きな子が出来る事もなく小学生の時のように誰かに告白される事もなく過ごしていた。
しかし高校一年の頃になると前に座る女子と隣に座る女子からよく喋り掛けられる事が多くなり自分でも“これは何だろう?”と不思議に思っていたが、その子は以前に書いた「○○さんが小学生の時好きだったんだって」と教えてくれた子で今思うとその子が友達から私の事をどんな人かを聞いて興味を持たんだと思う。
私は、一目惚れをする事はない。
心の中で“綺麗な子だな~”とは、思っている。
自分の前に座るその子は、その綺麗な子の一人だった。
席替えがあり席が遠くに離れるとその子を目で追うようになっていた。
それで小学生の頃から好きだった転校した子から“好きな子が変わったんだ”と気付いた。
二人の女の子は、席が離れてもよく話し掛けてくれるのだが女性が苦手の私は、たいした面白い返しも出来ずにいた。
一回だけ自分から話掛けた時に「初めて話し掛けてきてくれたね」と言われるしまつ。
その二人は、バレンタインデーの時に義理チョコをくれた。
一つのチョコを二人でお金を出し合ってくれた。
“私に気があるな”とはまったく思っていない。
“しかしホワイトデーのお返しって二人にどうすればいいの?“(小学校の時はちゃんとお返しをした)と思い、結局返さなかった。
非常識な事をしたとは今も思っているがその後も好きな子は普通に話し掛けてくれた。
2年生からはクラス替えで違うクラスになったが、すれ違った時には話し掛けてきた。
私は、お辞儀ぐらいをしていたと記憶しているがある日、その子が「あっ○○君だ!」と話掛けてきた時、何もリアクションしなかった。
”無視しよう“とか思っていた訳ではなく、内心嬉しかったがなぜかその時頷く事さえ出来なかった。
その後その子が私に話し掛けてくる事はなくなった。
自分は、好きな人の夢を見る事があるが7割は、この子で後は小学生の子が3割といった感じだろうか。
そして起きた後、あの頃の事を考えるとあの時が会話をした最後の時だったと気付き、その時その子の周りに数人の友達がいた。
それをその子の気持ちになってみれば友達の前で恥をかかせたとわかる。
なんでこんな事を書いているのかと言うと、”私が40過ぎて結婚していない理由がよくわかるでしょ“という事で、私は日々後悔してウジウジしているわけではない。
これを読んでくれた女性は、この男性を”気持ち悪い“と思うのか”男って可愛い“どちらを思うのだろうか?

「高校受験と赤点」

勉強嫌いの私は、一応希望の高校に行く為にちょっとだけ受験勉強をした。
なぜその学校を希望したのかというと家から近いからだ。
なんの目的も夢もなくその高校の普通科を受験した。
“高校までは行くものだ”と思っていた私は、近い高校だからその学校を受験した。
その高校を落ちると遠くの学校に行かなくては、ならなくなるので一応勉強した。
しかし、その学校を受けて落ちるのは、ズバ抜けた馬鹿しかいないとの事からその一校しか受けなかった。
今考えればそのズバ抜けた馬鹿は、自分だった可能性もあった。
落ちていれば路頭に迷っていた可能性もゼロではなかった。
恐ろしい程の計画性のなさだった。
運よく私は、その高校に合格していた。
後から聞いた話によるとその受験で落ちたのは、近所の女の子一人だった。
それが本当ならその一人は、その後どのような人生を送ったのだろうか?
“学校も一人ぐらい余分に取ってやれよ”と思ってしまうが噂レベルの話なので真相の方は定かではない。
“中学のように不良がたくさんいるのかな?”と恐る恐る通っていると不良達は、遠くの工業高校に行くのがこの辺のセオリーのようで、残っていた不良も義務教育ではないので本当の不良は単位が足りず辞めていった。
中学、高校とクラブに入らずどれだけ早く家に帰れるかを競う帰宅クラブのようにすぐに家に帰っていた。
ちなみに小学生の時はクラブ活動が強制で体力を使わない将棋クラブに入っていた。
中学と比べれば高校は、天国のような所だったが義務教育ではないので赤点を取れば留年になる。
もちろん心を入れ替えて勉学に勤しむ訳もなく1年の時に数学と英語で赤点を取り、仕方なく勉強をして留年を免れた。
それからは、2度試験を受ける面倒くささの為、試験前には一夜付けで勉強するようになったのだが心を入れ替えた訳ではなかった。
この頃も特に就きたい職業など夢もなく、勉強をする気力が沸かなかった。

「不良の涙と冷めた私」

中学校の時は、学生時代で一番楽しくなかった。
4階建ての校舎から勉強机が落ち、紙切れが雪のように降っていた。
現在の状況は、よく知らないが自分が入学した頃の学校は荒れていた。
真面目な私は、何かビクビクと過ごしていた気がする。
カツあげされたり、苛められていた訳ではないが学校に行くのが憂鬱だった。
小学生の時好きだった子も入学して違うクラスになっていたがいつの間にか転校していた。
友達いわくその子は、苛められていたそうだ。
それが原因かどうかは知らないが中学2年の頃に“同じクラスになれないかな”と淡い期待をしていたが同じクラスになるどころか学校から消えていた。
その後どこの学校に転校したかも、なんで転校したのかもまったくわからなくなってしまった。
なにかエピソードを書こうと思うのだがいい思いでも悪い思い出もほとんど出てこない。
中学生の時が一番楽しかったという人は、世の中に何人いるのだろうか?
義務教育最後の課程で勉強もしたくない輩が無理やり学校に来て悪さの限りを尽くし、思春期に突入する難しい時代に小学、高校、大学より“中学校が一番楽しかった”という人は、不良だけではないかと思ってしまう。
3年生の時は、特にクラスに友達が少なく早く卒業したいと思っていた。
やっと卒業という時、男性教師がお別れの挨拶をしながら泣いていた。
自分は、子供の頃から泣き虫で普通の楽しいトランプゲームに負けて泣いていた。
年を取った今は、テレビで何の縁も縁もない人が泣いているのを見るだけで貰い泣きするありさまだ。
別に嫌いな先生では、なかったがその先生が泣いているのに自分は卒業出来る事が嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
一番笑ったのは、クラスの不良の一人が号泣しているのだ。
何か先生との間に金八先生的な出来事があったのかもしれないが私は、“何泣いてるの?”とここぞとばかりにその不良を見ているとその不良は、泣いているのが恥ずかしいのか私から顔を逸らすのだった。
きっとその不良は、「なにガンたれてるんだ!」と散々人に迷惑を掛けていただろうに。
なんか書いているだけで憂鬱な気分になってきた。

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Author:WAYA
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